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最近駄文長文が続いて
自分だけならまだしも
人様に読ませるのは嫌がらせのように思えてきたので今日はライトに。
ある日のお稽古風景。
庭を背景に硯屏点前をしました。
硯屏とは簡単に言えば硯の風除けのようなものだそう。
アップにしてみました。
かわいらしい金魚がペアで泳いでいます。
実はこれ、刺繍なんです。
表も裏もちゃんときれいで
地の目は驚くほど細かくて向うが透けるほど繊細。
技術力にただただ驚くばかりです。
その日は私の過去の書を床の間に飾りました。
写真では小さすぎて判別できませんが
癸未とあるので、たぶん6年前ということは・・・
大学2年か3年の頃書いたということでしょうか。
詳しくは覚えていませんが
なかなかやるじゃないと褒めてあげたいです。
書の意味は書くと長くなるので割愛しますが。
書であれ何であれ、過去の作品を後から見るのは楽しいものです。
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五島美術館に行ってきました。
10月のお茶会の下見と聴講が目的です。
茶道は社会通念に反して実は気軽に和を楽しめるという側面もありながら
とはいえ総合芸術なので
私のようにライフワークと大見得を切った以上は
単にお茶を点てて飲んで喜んでいるだけでは不十分で
茶の湯そのものに精進することは言うまでもなく
書や花、香の心得から日本史、美術史の知識
実際に自分で道具を創作するセンスと技術
禅への理解
味覚や触覚等、五感の修練
適切な敬語を含む語彙力…
挙げればきりがない程
多角的な修行が求められます。
今必死で通っている和裁もその一部で
着物にまつわる決まりごとや模様の由来などを知ることは
お茶会での実践はもちろん茶道具への理解を深めることにもなる訳です。
前置きが長くなりましたが
今日五島美術館で学んだのは茶事でとても重要な位置を占める「懐石」について。
私は日本料理も月1で習っていますが
今回の主役は「器」の方でした。
演題『向付を支える二つの文脈』
・・・日曜の昼間にこんな講演を好んで聴きに行く26歳なんて我ながら渋いと思います。
向付とはその名の通り、懐石料理において飯椀と汁椀の向こう側に置く
肴を盛る器のことなのですが
演者の大日本茶道学会副会長、田中仙堂先生は
さすが大学教授、そもそも懐石とはという点から実に分かりやすく教えて下さいました。
懐石と会席の違いについて
前者は「ふところにあったかい石を」というくらいですから禅が元になっていて茶席で使われるもので
後者は見目麗しい高級な日本料理というイメージはありましたが
先生はそういった前提を歴史を踏まえて話された後
この区別を気持ちのいいくらい端的に定義されていました。
「ご飯が最初から出ているか最後に出てくるかです。」
・・・確かに。
そして話は江戸時代の接待文化から
『美味しんぼ』海原雄山のモデル、北大路魯山人の話まで
とても興味深いものでした。
今日の「向付」を支えているものは2つ
「膳」と「展示ケース」
大変勉強になりました。
ただ個人的には
「向付」が美術展のテーマになるほど鑑賞陶器として発展した前提として
懐石での飯椀と汁椀が必ず黒無地の漆器であることが挙げられるのではないかと考えるのですが
そういった側面についても触れて欲しかったというか歴史的背景等できれば伺いたかったです。
さて。
10月茶会の和菓子を考えないと。
10月のお茶会の下見と聴講が目的です。
茶道は社会通念に反して実は気軽に和を楽しめるという側面もありながら
とはいえ総合芸術なので
私のようにライフワークと大見得を切った以上は
単にお茶を点てて飲んで喜んでいるだけでは不十分で
茶の湯そのものに精進することは言うまでもなく
書や花、香の心得から日本史、美術史の知識
実際に自分で道具を創作するセンスと技術
禅への理解
味覚や触覚等、五感の修練
適切な敬語を含む語彙力…
挙げればきりがない程
多角的な修行が求められます。
今必死で通っている和裁もその一部で
着物にまつわる決まりごとや模様の由来などを知ることは
お茶会での実践はもちろん茶道具への理解を深めることにもなる訳です。
前置きが長くなりましたが
今日五島美術館で学んだのは茶事でとても重要な位置を占める「懐石」について。
私は日本料理も月1で習っていますが
今回の主役は「器」の方でした。
演題『向付を支える二つの文脈』
・・・日曜の昼間にこんな講演を好んで聴きに行く26歳なんて我ながら渋いと思います。
向付とはその名の通り、懐石料理において飯椀と汁椀の向こう側に置く
肴を盛る器のことなのですが
演者の大日本茶道学会副会長、田中仙堂先生は
さすが大学教授、そもそも懐石とはという点から実に分かりやすく教えて下さいました。
懐石と会席の違いについて
前者は「ふところにあったかい石を」というくらいですから禅が元になっていて茶席で使われるもので
後者は見目麗しい高級な日本料理というイメージはありましたが
先生はそういった前提を歴史を踏まえて話された後
この区別を気持ちのいいくらい端的に定義されていました。
「ご飯が最初から出ているか最後に出てくるかです。」
・・・確かに。
そして話は江戸時代の接待文化から
『美味しんぼ』海原雄山のモデル、北大路魯山人の話まで
とても興味深いものでした。
今日の「向付」を支えているものは2つ
「膳」と「展示ケース」
大変勉強になりました。
ただ個人的には
「向付」が美術展のテーマになるほど鑑賞陶器として発展した前提として
懐石での飯椀と汁椀が必ず黒無地の漆器であることが挙げられるのではないかと考えるのですが
そういった側面についても触れて欲しかったというか歴史的背景等できれば伺いたかったです。
さて。
10月茶会の和菓子を考えないと。
ピアノとカホンの2人組
→Pia-no-jaC←の新譜を発売日に購入しました。
風神雷神
amazonで前もって発売日等々は分かっていたのですが
中でも気になっていたのはタイトルと、何と言ってもアートワーク。
このアルバム、聴く前から楽しめました。
琳派好きの私としては
この元ネタが
宗達でも抱一でもなく、光琳作の風神雷神図屏風であることをチェック。
宗達はもっと風神が深緑で縁取りが強くなく
抱一はもっと崩れている(失礼)ので。
私は勿論初代の宗達のが好きなのですが
光琳のものがやはり一番モチーフになりやすいようです。
その上で
風袋が鍵盤になっていて
雷神の輪にシンバルがついている
撥がスティックになっている
など
間違い探しに興じるのです。
実によく出来ています。
とはいえ、感心するのはまだ早かったようで
やはりCDですから聴くことによってジャケットを体感しました。
二神が暴れる日本の夏のBGMにはいいと思います。
私の場合、両方とも身近な楽器というか
どうしても弾き手として聴いてしまうので
ヴィレバンフリークの方々や
Amazonのレビュー程高く評価をしている訳ではないのですが
それでも前作、前々作以上の完成度の高さを感じました。
猛々しさが持ち味のアーティストですが
中でも新鮮だったのが5曲目『花火~hanabi~』。
坂本龍一を意識したような(あくまで意識したに留まりますが)切ないピアノに花火の音を模したカホン。
特に後半4分27秒からはもう花火になりきっています。
カホンの音がこんな風に聞こえるというのは発見でした。
花火大会に行って
眼前一杯に迫る光の輪と体幹に響く音にただただ圧倒されて
美しすぎて潔すぎて儚すぎて
なんだか涙が出てくるような
そんな感覚が復元されています。
ただ、私の感性がそのレベルまで達していないのか
理解できないのがラスト
実際の花火大会もそうなのでいきなり切れるのは分かります。
でも
カホンで写実を、ピアノで叙情や色彩を歌っているのなら
最後の1音はピアノではなくカホンであるべきではないでしょうか。
もうしばらく聴いてみないと。
後はピアノの音色にもうちょい遊びというか
単純なコードで表現できない深みが出てくれるといいなーなんて
何様目線で書いてるんだって話ですが。
風神雷神
amazonで前もって発売日等々は分かっていたのですが
中でも気になっていたのはタイトルと、何と言ってもアートワーク。
このアルバム、聴く前から楽しめました。
琳派好きの私としては
この元ネタが
宗達でも抱一でもなく、光琳作の風神雷神図屏風であることをチェック。
宗達はもっと風神が深緑で縁取りが強くなく
抱一はもっと崩れている(失礼)ので。
私は勿論初代の宗達のが好きなのですが
光琳のものがやはり一番モチーフになりやすいようです。
その上で
風袋が鍵盤になっていて
雷神の輪にシンバルがついている
撥がスティックになっている
など
間違い探しに興じるのです。
実によく出来ています。
とはいえ、感心するのはまだ早かったようで
やはりCDですから聴くことによってジャケットを体感しました。
二神が暴れる日本の夏のBGMにはいいと思います。
私の場合、両方とも身近な楽器というか
どうしても弾き手として聴いてしまうので
ヴィレバンフリークの方々や
Amazonのレビュー程高く評価をしている訳ではないのですが
それでも前作、前々作以上の完成度の高さを感じました。
猛々しさが持ち味のアーティストですが
中でも新鮮だったのが5曲目『花火~hanabi~』。
坂本龍一を意識したような(あくまで意識したに留まりますが)切ないピアノに花火の音を模したカホン。
特に後半4分27秒からはもう花火になりきっています。
カホンの音がこんな風に聞こえるというのは発見でした。
花火大会に行って
眼前一杯に迫る光の輪と体幹に響く音にただただ圧倒されて
美しすぎて潔すぎて儚すぎて
なんだか涙が出てくるような
そんな感覚が復元されています。
ただ、私の感性がそのレベルまで達していないのか
理解できないのがラスト
実際の花火大会もそうなのでいきなり切れるのは分かります。
でも
カホンで写実を、ピアノで叙情や色彩を歌っているのなら
最後の1音はピアノではなくカホンであるべきではないでしょうか。
もうしばらく聴いてみないと。
後はピアノの音色にもうちょい遊びというか
単純なコードで表現できない深みが出てくれるといいなーなんて
何様目線で書いてるんだって話ですが。